MENU
『魅力満載日本の秋文化』パート1『紅葉狩』
日本の秋といえば五感で感じる魅力的な伝統習慣がたくさんあります。
パートⅠ『紅葉狩』.パートⅡ『秋の食』を2回に分けてご紹介していきます。
日本人にとって秋はどのような季節だったのか古来の時間まで
さかのぼってみたいと思います。
今回はパート1『紅葉狩』をテーマに解説させていただきます。
古来の日本は季節の微かな移ろいを敏感に拾い上げて、その予感を歌に詠む「迎へ詠み」を風流としてきました。 そして農耕民族ならではの伝統文化や習慣風土として四季を強く意識しています。 秋は、夏の高温多湿から解放され、豊かな実りや音楽、衣替えなど、最も五感を使う感覚的な季節です。 そして猛暑で疲れた体を癒す時でもあります。実りの秋、稲刈りを行う10月には、全国各地で実りを祝う祭りもあり祭りで 人々が一丸となって、収穫を祝い感謝し、食を楽しみ、歌を歌いそしてそこに古来からの仏教的な無常感もあり心静かに冥想する季節 日本の秋の魅力とは、長年の歳月が編み出した季節の味と香りを五感すべての感覚器官で味わえること。 時空が感覚に訴えてくるのも日本の魅力でもあります。
日本では、古くから秋になると紅葉狩りをするという文化があり、また食欲の秋とも称されてます。
日本以外の国にも四季は存在しますが、日本のようにハッキリ季節が移り変わる国はそう多くはないと思います。
古来(平安時代)から四季の移り変わりを敏感に感じ取り、行事や旬の食べ物を通じて季節を存分に楽しんでいました。
今回は改めて日本の四季『秋』の魅力に目を向けてみたいと思います。
パート1『紅葉狩り』
1章: 日本人が紅葉や秋の食を楽しむようになった起源はいつから?
現代では「紅葉」が一般的ですが、『万葉集』ではほとんどの場合「黄葉」と書かれています。 これは、古代には黄色い植物が多かったということではなく、中国文学の五行ごぎょう思想の影響だとかんがえられます。 「黄」は「土」を示すもので、当時は死者が出ると、亡骸なきがら は山の土中に埋葬してたから『黄』黄泉を示すともされてました。
1000年前の平安時代にタイムスリップして『紅葉』と『秋の食』を万葉集から紹介いたします。
妹(いも)がりと馬に鞍置(くらお)きて生駒山(いこまやま) うち越(こ) えくれば紅葉(もみじ)散りつつ
(いとしい人のもとへ行こうと、鞍を置いた馬に打ちまたがり、
生駒山を越えようとすると、しきりに紅葉が散りかかる)と、
恋人との(おうせ)をなんとか
なえたいという恋歌
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
芳年『つきの百姿嵯峨野の月』,秋山武右エ門,
明治24. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306393 (参照 2023-10-14)
秋山の黄葉(もみじ)を茂(しげ)み迷(まと)ひぬる 妹(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも
(黄葉がいっぱいの秋山に、迷い込み亡き妻を捜しに行きたいが、 道も 解わからない)と訴え、黄葉の「黄」から 「黄泉よみ」も連想させ、さらに黄泉の音意から亡骸が「甦よみがえ」て 欲しい亡き妻恋しい歌 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
芳年『月百姿 源氏夕顔巻』,
秋山武右エ門,明治19.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306386 (参照 2023-10-14)
高松(たかまつ)のこの峯も狭(せ)に笠立(かさた)てて満ち盛(さか)りたる秋香(あきのか)の吉(よ)さ
平安時代の松茸も秋を代表する香りの食菜であったこと、 松茸の柔らかなる松傘の姿から、芳かばしい香を漂ただよわす木茸であった。 「秋の香」として詠ぜられたのです。平安時代から秋といえば松茸を食べていたことがわかります。 作者不明
2章:紅葉狩と言われるようになったのはなぜ?
一節:野山散策を狩と称してた。
平安時代の貴族は「歩く」ことを下品だと考えており、移動は牛が曳く車で移動することが多かった。
紅葉を見るためには山や渓谷を歩く必要があるため「歩く」のではなく「狩り」をしているという表現を用いた説。
もう一つは紅葉を手に取り集めて、鑑賞していたことから「狩る」と言う表現になったとされた説。
『平治物語[絵巻]』第1軸
三条殿焼討巻,
住吉内記 [ほか写],[寛政頃].
国立国会図書館
デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11299474
(参照 2023-10-14)
『平治物語[絵巻]』第2軸 信西巻,
住吉内記 [ほか写],[寛政頃]. 国立国会図書館
デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11299475
(参照 2023-10-14)
『平治物語[絵巻]』第2軸 信西巻,住吉内記
[ほか写],[寛政頃]. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11299475 (参照 2023-10-14)
二節:美女が鬼となる「紅葉伝説」
「紅葉狩り」という歌舞伎や能の演目にもなっています。伝説は各地に伝わっており、地域によって内容は異なりますが、
「紅葉」という名前の女性が鬼となり、武士によって退治されるというストーリーは共通です。
歌舞伎や能の演目としての「紅葉狩り」は、紅葉を見に出かけた人物が美しい女性たちに出会うも、
その女性たちは鬼だったと言う展開になってます。長野県の戸隠や別所温泉などに伝わる伝説です。
鬼がいたと伝わる伝説を思い返しながら、「紅葉狩り」してみるのも面白いかもしれませんね。
信州鬼無里KINASA ホームページ参考 https://kinasa.jp/kijomomiji/
芳年『新形三十六怪撰 平惟茂戸隠山に悪鬼を退治す図』
,佐々木豊吉,明治23. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306428 (参照 2023-10-09)
しんけいさんじゅうろう
長野 鬼無里 奥裾花渓谷の紅葉
3章:紅葉狩が一般に行われるようたのは江戸時代
江戸時代大ブームななった紅葉狩はどのように堪能していたのか?
貴族の楽しみだった紅葉狩りは、江戸時代になると庶民の間でも一大ブームになりました。 ブームの発端は、『都名勝図会』といった名所案内本でした。本に載った紅葉の名所は、多くの人でにぎわって いたとされています。ブームにのって、女性たちの間では旬の物(紅葉など)デザインした着物(小袖)など 人気となり流行に身を包み、紅葉狩りに出かけるのがトレンドになっていったようです。 江戸時代には、現在の紅葉狩りと同じく、木の下に敷物を敷いてお弁当やお酒を堪能しつつ、紅葉を楽しむ スタイルになったとされています。
江戸時代の龍眼寺(りゅうげんじ))(現在の亀戸)
にて秋の花萩を楽しむ人々の様子が描かれてます
出典:国立公文書館
請求番号:174-0036-0018
簿冊名:江戸名所図会
件名:江戸名所図会18
目録情報URI:
https://www.digital.archives.go.jp/item/4189043
『十二月遊ひ 2巻』下,[寛文・延宝頃][写].
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11299477 (参照 2023-10-14)
江戸の紅葉名所であった海晏寺の様子
寺の裏手からは海を見渡すことができ、 夕日に照らされた海と紅葉は絶景であったといいます
広重,豊国『江戸自慢三十六興 海案寺紅葉』,
平のや. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1305746 (参照 2023-10-09)
広重『海案寺紅葉』,相ト.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1303604 (参照 2023-10-08)
出典:国立公文書館
請求番号:174-0036-0004
簿冊名:江戸名所図会
件名:江戸名所図会4
目録情報URI:
https://www.digital.archives.go.jp/item/4188124
海晏寺(かいあんじ)は、東海道第1番目の宿場町・品川にあり、 江戸随一の紅葉の名所として有名な寺院です。 品川の漁師の網にかかった鮫の腹中から観音像が出てきたことから 、建長3年(1251)、時の執権・北条時頼が同寺を建立してこれを祀った (まつった)のが始まりとされ、鮫洲という地名の由来の一つにもなっています。 10月は神無月(かんなづき)の名前のとおり、神々が出雲へ行って不在の せいか、江戸の町では祭礼も少ないこともあり、人々の足は紅葉の 名所に向かったようです。 海晏寺の広大な庭には紅葉茶屋が設けられるなど、日帰りできる行楽地として 多くの人で賑わいました。 紅葉狩りは若者や婦女子にはあまり人気がなく、俳句や連歌の宗匠、医師、 僧侶などの文人が多く、大人の遊びであったとも言われています。
現在の海晏寺
紅葉狩へは流行のオシャレをして行った。
江戸時代のファッションの説明がしてある一部です。ファッションをたのしむのは今も昔もかわらないかったようです。
ヘアースタイルから着こなしトレンドなどが記されてます。オシャレをして紅葉狩に出かけることが流行だったようです。
喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻10,写.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2592398
(参照 2023-10-14)
喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻10,
写. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2592398
(参照 2023-10-14)
喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻10,写.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2592398
(参照 2023-10-14)
喜田川季荘 編『守貞謾稿』巻10,写.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2592398
(参照 2023-10-14)
当時江戸時代の10月、11月の服装図から知る文化風習。
秋祭り格好でお囃子や旅姿、紅葉や楓の枝、干し大根、鴨を持つ姿で行楽や食を楽しまれてたようです。
10月は神無月そして11月には神様が帰ってくる。そんなことで吉日の多い11月がもっとも婚礼が多かった月だったようです。
紅翠齋北尾子 畫 ほか『四時交加 2巻』,
鶴屋喜右衛門,寛政10 [1798].
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2534277
(参照 2023-10-14)
紅翠齋北尾子 畫 ほか『四時交加 2巻』,
鶴屋喜右衛門,寛政10 [1798].
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2534277
(参照 2023-10-14)
紅葉狩と武蔵野の深大寺新そばを堪能しながら秋の風物詩として楽しんでいる様子。
武蔵野神代寺の蕎麦由来
江戸時代、武蔵の土地が米の生産に向かなかったため小作人が蕎麦を作って、 蕎麦粉を深大寺に献上した。それを寺側が蕎麦として打ち、来客をもてなしたのが始まりといわれている。 深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王はこの蕎麦を非常に気に入っており、「献上蕎麦」でもあった。 また、徳川第三代将軍徳川家光は、鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って蕎麦を食べ、褒めたとされている。享保の改革時には、 地味の悪い土地でも育つ蕎麦の栽培が深大寺周辺で奨励された。江戸時代後期には太田蜀山人が巡視中に深大寺そばを食し、 それを宣伝すると知名度が上がり、文人や墨客にも愛されるようになった。『江戸名所図会』にも「深大寺蕎麦」が記載されるなどして 更に名が広まり、生産も増えていった。(調布市立図書館市民の手による まちの資料館館:参考)
江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「武蔵国の内いずれの地にも蕎麦を植えざることなけれどもその品、当所の産に及ぶもの なしゆえに、世に深大寺蕎麦と称して、そのあじわい極めて絶品と称せり」と記されています。実が大きく、色が白くて、甘味があり、 一升の実からとれるそば粉の量が多いという品質を備え、また深大寺周辺の豊かな湧水を使ったそばは水きりがよくこうした武蔵野の風土の 中から生まれたそばが「きわめて絶品」と賞賛されたそうです。
大日本名所図会刊行会 編 『大日本名所図会』第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959917 (参照 2023-10-09)
出典:国立公文書館
請求番号:174-0031-0018
簿冊名:江戸名所図会
件名:江戸名所図会18
目録情報URI:
https://www.digital.archives.go.jp/item/4188116
日本人の風物詩として紅葉狩の習慣が今も残っています。
1000年前の平安時代から現代に至るまでの日本人の心は変わらず
伝承
されていることを後世にも残していきたいものです。更新2023/10/20