日本の文化.風習の起源はどこからきているのか?
パート3
日本国の始まり『お米の国』農耕民族の起源や 農耕儀礼説『日本のお祭り』は 日本神話から由来となってます。これらの実在したと言われる場所や伝説含めて どのように現代の風習文化として伝わり関わってきたのか歴史を辿って解説していきます。
『国譲り神話』
タケミカヅチとアメノトリフネが派遣されて、伊耶佐(いざさ)の小浜(稲佐浜)に降りました。
タケミカヅチは十拳剣(とつかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいて
オオクニヌシに国譲りを迫りました。オオクニヌシは「年老いた自分の一存では決められません」と、
わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子ども
であるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、
「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で
追い詰められてついに国譲りに同意しました。 二人の子どもが同意したのを知り、オオクニヌシも
ついに国譲りを受け入れ、「その代わりに、私の神殿を皇孫が天つ日継ぎを受け、統治する立派な
宮殿と同じくらい立派なものにしてください」と望みます。願いはかなえられ、多芸志の小浜に大きな
神殿が造られました。これが出雲大社の起源です。そしてオオクニヌシは、そこに鎮座してコトシロヌシ
にやはり自分の子である百八十神を統率させました。
参考資料:神社本庁
国譲り神話は、天の国である高天原が、地上の国すなわち日本列島の支配権をオオクニヌシから受け継ぐ
という神話、『古事記』『日本書記』などの神話が果たす役割はとても大きく、天皇家の日本列島支配の
正当性を伝えています。そして平和的政権交代の象徴『国譲り』は、
共生と譲り合いの精神で解決し、
縄文時代から受け継がれてきた日本人の智慧だったのでしょう。
こうして天皇制の日本国家が始まることになりました。
『出雲大社本殿』には神代からのしきたりが今も守られている!
"ビックリ‼️” 天皇陛下であっても、神域である本殿に入ることは許されない理由
出雲大社は、神話の中で国譲り神話に登場する大国主大神が天照大神様から頂いた神殿なので主祭神として祀っています。
神話では、大国主大神は天照大神の命を受けた建御雷神に国を譲り、その後、出雲大社に祀られることになりました。
神話に基づき、出雲大社は天照大神に対して臣従する立場ではなく、独立した神聖な場所とされています。
そのため、天皇陛下であっても、神域である本殿に入ることは現代でも許されないということです。
出雲大社は、この理由に加え、古くから独自の祭祀体系を持つ神社として、皇室とは別の神事を行ってきた歴史があります。
そのため、天皇陛下が本殿に入ることは許されないしきたりになってます。
出雲御本殿北側に最強パワースポット素鵞社(そがのやしろ)があります。 床下には木箱が置いてあり、中には出雲大社の1kmほど西にある 稲佐の浜(いなさのはま)から持ち運ばれた砂が入っています。 素鵞社で清められた御砂は、撒くと土地を清めるご利益があると いわれています。マナーを守って砂をいただき正しい手順で 参拝しましょう。 こちらの詳しい内容はまたの機会に詳しくご紹介いたします。
『天孫降臨』 あまてらすおおみかみさまは、孫のににぎのみことに三種の神器さんしゅのしんきである 八たの鏡やたのかがみ・八坂瓊曲玉やさかにのまがたま・草薙剣くさなぎのつるぎを授け、 豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを高天原たかまのはらのように すばらしい国にするため、天降るように命じました。さっそくニニギの命が高天原に 住む天神あまつかみを伴って天降ろうとされると、あやしい光を放つ神さまがいました。 天照大御神さまは不思議に思われ、天宇受売命あめのうずめのみことという 女の神さまを遣わしてどうしてそこにいるのかを問わせました。 その神さまの名は猿田彦神さるたひこのかみといい、 ニニギの命が高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。 そこでニニギの命は猿田彦神を先導に、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、 日向の高千穂の地に天降られました。参考資料:神社本庁
アマテラスの孫達が地上に降臨したことを「天孫降臨」と言います。
アマテラスは降臨するニニギに稲穂を渡し、「この稲を育てて地上を治めなさい。」と言います。
そこから稲を高く積む場所として『高千穂』と名付けられた。
宮崎県北端部にある、高千穂町は『神話のふる里』と称されるようになりました。
そしてニニギはアマテラスから皇位継承の証として”三種の神器”を渡されてます。
歴代天皇に現代まで代々受け継がれています。
皇室経済法が定める「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置づけられています。
3種の神器
皇位の御印
『草薙剣』は、 スサノオがヤマタノオロチを斬り殺したときに、その尾から現れた神剣です。
「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも呼ばれるこの剣を、スサノオは高天原の神々に献上。
時代が下ると草薙剣はヤマトタケルが東国を平定する際にも用いられ、
敵の火攻めを退けるなど
の霊力を発揮したと神話では語られてます。
『八咫鏡』と『八尺瓊勾玉』は、 天岩戸神話に登場するアイテムです。
鏡はアマテラスが天岩戸に姿を隠し、世界が闇に覆われると、焦った神々は岩戸の前で宴会を開き
アマテラスの気を引こうとし鏡を岩戸の前に
差し出した鏡に映った自分の姿を「自分より高貴な神」
だと勘違いし
身を乗り出すその隙に腕力のある神がアマテラスを外へ引き出した。
このとき使われた鏡が、八咫鏡である。「記紀神話」において最初に造られた鏡でもあります。
そして八尺瓊勾玉(やさかのまがたま)も、アマテラスを招き出す祭祀のために造られた神宝です。
真榊に掛けて飾るために作られたと言われています。
これら三種の神器は、ニニギが天孫降臨をする際にアマテラスから授けられ、
皇位の正統性を保証する御印(みしるし)となり現在まで受け継がれています。
ここで天皇が誕生いたしました。
現在八尺瓊勾玉は赤坂御所、草薙剣は熱田神宮、八咫鏡は伊勢神宮の内宮に奉安されています。
1200年以上前の神話時代の神器がそのままのかたちで残っているとはアニメの世界のようです。
三種の神器はその神聖さゆえ、俗人の目に触れてはならず、
現代になっても天皇でさえ見ることが許されない代物なのです。
見るな、知るな、畏怖せよ!
謎の『三種の神器』
見る者は神罰を受けるという伝説が語り継がれる三種の神器伝説
見てはいけないと言われれば見たくなるのが人,
過去には神器 を見ようとした者もいたのだが、
記録の多くは怪異譚のようなものばかりなのが実情なのです。
鎌倉時代初期の説話集『古事談(こじだん)』によると
7代陽成(ようぜい)天皇が異常な精神状態に陥った際、神器の納められた箱を開けてしまったと記されている。
ただ、天皇が箱の紐を解くと、突如白い雲が立ち上ったため中身を知ることは叶わなかったという。
さらに草薙剣も抜いたとも言われているが、このときも急に御殿に閃光が走り、
剣もみずから鞘(さや)に戻ったと伝わる。
『平家物語』にも
八咫鏡の入った箱を開けた兵士の話が残されている。しかしこの兵士も蓋を開けた瞬間に目が眩み
鼻血が出たため、
鏡を見ることはできなかったという。
神器を見ることが古代からずっとタブーとされたことが事実なのです。
『三大神勅』さんだいしんちょく天孫族の使命
アマテラスは天皇の使命である「三大神勅」をニニギに託した
『3つのお告げ』
「天壌無窮(てんじょうむきゅう)
の神勅しんちょく」
とよあしはらの千五百秋ちいほあきの瑞穂の国は、是これ吾あが子孫の王たるべき地なり。 宜しく爾いまし皇孫すめみま就ゆきて治しらせ。行矣さきくませ。宝祚あまつひつぎの隆さかえまさむこと、 当まさに天壌あめつちと窮きはまりなかるべし。
この国の君主である自覚を持つこと
天照大御神の子孫である天皇陛下が日本の国土を統治することを表したもの。
「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)
の神勅しんちょく」
あが児みこ、此この宝鏡かがみを視まさむこと、当まさに猶なお吾あれを視るがごとくすべし。
興ともに床みゆかを同じくし、
殿みあらかを同ひとつにして、斎いわいの鏡と為なすべし。
神としての生き方を示すこと
「祭りを行うときの神鏡として崇め奉りなさい」
鏡は天照大御神を表し、
曇りなき自身を映すものです。
「斎庭稲穂(ゆにわいなほ)
の神勅しんちょく」
吾あが高天原(たかまがはら)に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂を以って、
亦(また)、吾(あが)児(みこ)に
御まかせまつるべし。
この国を繁栄させること
天照大御神が「人々の食の中心」として天上の
田んぼで育てた稲を育て
国を治めて繁栄させないさい。
天孫降臨後は天皇陛下が五穀豊穣に感謝するお祭りを毎年行う大切な祭祀があります。
10月17日『神嘗祭』(かんなめさい)その年の最初に収穫された稲穂「初穂」を
天照大御神に奉納し、感謝の気持ちを捧げるお祭りを宮中で行います。
11月23日に『新嘗祭』(にいなめさい)(しんじょうさい)とも言ってます。
天皇陛下が天照大御神(あまてらすおおみかみ)をはじめ八百万の神々にその年の新米をすすめ、
『めぐみ』に感謝し、自ら一緒にお召し上がりになるというお祭りを伊勢神宮で行います。
これらは毎年行われる農耕儀礼で、この神勅に由来する古代から伝承されている祭祀なのです。
農耕民族の日本人がお米を大切に、稲作を大事に守り続ける理由は、
この神勅に根源があると言えます🌾
『天孫降臨に関わった場所』
高千穂溪谷
太古の時代阿蘇山噴火の溶岩流出で
できた柱状の岩地形が
独特な風景です。
天孫降臨の際、この地に水がなかったため、天村雲命(あめのむらくものみこと)が 太古の昔、阿蘇山の噴火活動で流れ出た溶岩の侵食によって形成された 高千穂溪谷に水種を移し「天真名井」の水が滝となって流れ落ちています。 この滝は現在日本滝百選に指定されてます。
豆知識
現在の阿蘇山ができるはるか昔に
4回の大規模な噴火があったと
考えられています。 約27万年前、
約14万年前、約12万年前、
約9万年前の4回です。特に
4回目の約9万年前の噴火は規模が大きく、
その噴火による火砕流の堆積物が海を
隔てた島原、天草や山口県でも
確認されています。
なぜ天孫降臨地が高千穂だったのか?
古事記の記述に「日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」であると記されていた。
霧島連峰の高千穂峰がくじふるたけであるという説もあり
古くから高千穂連山が神聖な山として信仰されており
天孫降臨神話との関連性も指摘されてました。
神話と自然の符合が高千穂峡にある柱状節理と呼ばれる岩肌や真名井の滝は、
神秘的な景観が広がる
天孫降臨神話にふさわしい場所としてイメージにピッタリだった。
さらに古代高千穂は、畿内から離れた辺境の地であり朝廷の支配は及んでいませんでした。
そのため、古代豪族たちは独自の勢力を築き、高千穂地方を支配していました。
『日向国風土記』『高千穂古今治乱記』の豪族たちは、農業、漁業、狩猟などの生産活動を行い、交易を通じて富を蓄積されていました。
また、祭祀を行い、地域社会を統治していた痕跡が遺跡などから発見されてます。(岩戸神社遺跡,高千穂峡南岸遺跡,三田井遺跡)
このようなこともあり天孫降臨として正しい天皇の正当な血筋である
『瓊瓊杵尊ににぎのみこと』に久士布流多気(くじふるたけ)高千穂で
政権交代する必要があった為
ではないかと思います。実際のところは謎のままです。
今後の研究によってもっと神話との関係がアップデートされると思います。
「くしふるたけ」の『高千穂神社』はいつ創建されたのか?
『日向国風土記』や『高千穂宮御由緒』によれば
約1900年前の7〜8世紀ごろの11代垂仁天皇の御代創設説と言われてます。
さらに古い説もあり、高千穂神社の祭神である瓊瓊杵尊は、
天孫降臨神話に登場する神であり、日向国の守護神,
神話時代から高千穂の地が神聖な場所として認識されていた可能性があり、
弥生時代からと言う説もありますが、
確かなことはわかってないのが現状です。
謎に包まれた11代垂仁天皇の功績と逸話
埴輪の起源伝承した。
😱埴輪の起源
天皇が亡くなると、近習の者が集められて生きたまま陵のまわりに埋められた
風習が古来ありました。垂仁天皇は、野見宿禰(のみのすくね)の助言により
「殉死は痛々しい」と考え、廃止を命じた。
人の代わりに土の人形や馬を作って陵墓に立てることを進言し、その後
殉死は行われなかった。日本書紀は「名付けてこれを埴輪という」と記し
埴輪の名前もこのときに生まれた。
農業技術の振興に尽力した。
🥬農耕の発達
国内では池や溝(水路)を数多く作らせた。
常世国(とこよのくに)に農業技術を学びに「太道間守(たじまもり)」を派遣した。
また、田道間守は非時香菓(ときじくのかくのみ)
みかんの先祖を持ち帰った人、現代ではお菓子の神様といわれてます。
心優しい垂仁天皇の施策によって民は安らかになりました。
日本の国技である『相撲』も垂仁天皇の時代から始まったとされてます。
相撲の起源説は後回で詳しく解説させていただきます。
🍊非時香菓(ときじくのかくのみ)
みかんの先祖エピソード
古事記と日本書紀には、「垂仁天皇の命を受け太道間守(たじまもり)は、
不老長寿の果物として常世の国から持ち帰ったのが橘(たちばな)」
垂仁90年に(293年)常世国に渡り、垂仁99年(297年)、
残念なことに垂仁天皇崩御直後に柑橘類の橘を持ちかえっています。
現在のみかんの木の原形が日本に入ってきたお話しです。
🔖日本最古の柑橘類の橘
「尾崎コミカン先祖木」と呼ばれている樹齢850年
という日本で一番長生きのみかんの古木が大分県
津久見市に現存してます。この紀州ミカン
栽培の歴史は今から1200年以上前からです。
現在残っているのは約850年前の1157年
に地元の又四郎という人によって植えられた古木です。
みかんは、商売繁盛、子孫繁栄と縁起物とされております。
『高千穂神社の御神木』
源頼朝は畠山重忠を代参として多くの
宝物を高千穂神社に奉納してます。
その中でも秩父杉は800年たった
今も社頭に高くそびえてます。
神様が宿っているとも言われてます。
『古宮跡 霧島神宮』
霧島神宮は瓊瓊杵尊の天降臨地として、霧島山は、
古来より神々が宿る山として崇められてきました。
山岳信仰の祖として、
神々が住まう霧島山の霊力を受け、
人々の生活を守護してくれる神聖な場所としても信仰されてます。
540年に高千穂峰入り口に建立されました。
何度もの霧島山の噴火により焼失を繰り返し
現在の場所に移転されました。古宮跡は現在『高千穂河原』と呼ばれてます。
神代の旧物『あまの逆鉾』
天の逆鉾は日本三奇の一つ
高千穂峰頂上標高1574m
天の逆鉾は、
奈良時代にすでに存在していたと言われています。
神話では、イザナギとイザナミの夫婦神が日本列島を作るために
大地に突き刺したとされています。
坂本龍馬が妻のお龍と高千穂峰を訪れた際、何を思ったか引き抜いて
見せたというエピソードがあります。
「天の逆鉾」は度重なる火山の噴火で一度折れてしまい、今見られる逆鉾は、
数百年前に何者かがあつらえたレプリカなのだそうです。
折れてしまった柄の部分は、しばらく宮崎県都城市の荒立神社の御神体として祀られていたが、
それも戦後の混乱で行方がわからなくなってしまったという説?
本物は内宮御酒殿に保管されている?確かなことはわからず謎のままです...
霧島山の大噴火は4回もあった!
霧島山の噴火の歴史は、太古の約34万年前に現在のえびの市を中心とした地域で大噴火を起こし
「加久藤カルデラ」を形成したことから始まります。その後、カルデラの南部で火山活動が始まり、
30万年前から次々と火山ができました。
霧島山の噴火の中で最も古い記録は、『続日本紀』に記載されており
*平てんぴょう14年(742) 天45代聖武天皇の時代で、御鉢噴火の様子が書かれており、大隅国の国司こくし(朝廷から派遣された役人)から
「11月23日から28日にかけて空から太鼓のような音が響き、雉きじが驚き地震があった」と報告がありました。
(現代の気象庁データーでは12月24日から4日間になってます。)
*延暦えんりゃく7年(788)49代光仁天皇の時代、気象庁データー4月18日火砕物降下(片添テフラ)、溶岩流(霧島神宮溶岩)。
噴火場所は御鉢。マグマ噴出量は0.0539 DREkm 3。(VEI3)
*正徳しょうとく6年(1716)2月(6月に元号が享保に変わる)、大音響とともに大爆発が始まりました。
*享保2年1月(1717)火砕流を伴う大規模な噴火など2年間で(気象庁データーより7回噴火してます。)
その後も火山活動が続いて、現在の霧島山まで成長してきました。自然の驚異に晒さらされながら、4回の大きな噴火があり、
しかも降灰などによって甚大な被害を覆った田畑を懸命に整備しながら、大自然に寄り添い生きてきた人々
一方、火山活動は、温泉などの自然の恵みを齎もたらし自然を満喫できる環境も提供してくれました。
『現在の霧島神宮』
度重なる火山噴火と火災の為正徳5年(1715年)に鹿児島の藩主である
島津吉貴 (しまづよしたか)の命令によって重建されたのが現在の御殿です。
現在の建物は約300年前の建物で、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅使殿、
門守神社等その配置は妙を得て
輪奐の美をなしています。
2023年国宝指定になりました。
🔖ミニ知識
社号の歴史と由来
現在では神社に格付けは行われてはおらず、それぞれ自由に名乗ることができますが、第二次世界大戦以前ではこの格付けが行われていたのです。 明治維新以降、国が神社の管理を行うようになり、「神宮」、「大社」を名乗るには天皇の許可である「勅許」が必要だったのです。 大戦以降は「政教分離」によって神社は国の管理を離れ、自由に神宮、大社を名乗れるようになりました。
『社号』と呼ばれる神社の格式を表す名前
[神社とは?]
神社は日本古来の宗教である「神道(しんとう)」の祭祀を行う施設のことです。
[神宮とは?]
「皇室、または皇室とゆかりの深い関わりを持つ人物を祀っている神社」となっています。
[大社とは?]
その地域で一番大きな神社や、全国に信仰の対象として存在する同じ神を祀った神社で、神社名を共有している系列の総本社の社号になります。
[社とは?]
社(やしろ)と呼ばれるところもありますが、これは「屋代(やしろ)」からきている言葉です。
[代(しろ)とは?]
神を祀るために清められた場所という意味があり、そこに建てられた祭壇といった意味になります。
[宮とは?]
「宮」には、皇室の皇子や皇孫(親王)など、歴史上の人物が祀られています。
九面信仰伝説
九面信仰は、霧島神宮に伝わる民間信仰で、九つの顔を持つ神様を祀るものです。
[1,九面天照大神]
皇室の祖神であり、日本の守護神。
[2,瓊瓊杵尊]
天照大神の孫であり、地上に降臨した最初の神。
[3,彦火火出見尊]
瓊瓊杵尊の子であり、日向国を治めた神。
[4,鵜葺草葺不合尊]
彦火火出見尊の子であり、山幸彦の父。
[5,山幸彦]
海幸彦との釣り針の争いで勝利し、豊玉姫と結婚した神。
[6,鵜草葺不合尊]
山幸彦と豊玉姫の子であり、海幸彦の兄。
[7,玉依姫]
海神の娘であり、山幸彦の妻。
[8,火闌降命]
瓊瓊杵尊の兄であり、火の神。
[9,猿田彦命]
天孫降臨の際に道案内をした神。
今から300年位前、霧島神宮に祈願するために奉納された九つの面です。
主に伎楽面・猿田彦面で、当時石工として有名な海老原源左衛門が奉納したと言われています。
神面の数は九つで、この面を拝すれば工面(九面)がよくなるとのことで、拝観に訪れる人も多いです。
古くから霧島の人々は「九面」を「工面」にかけて縁起がいいとし、
とくに商売人はこぞって霧島神宮の九面をありがたがっていました。
九面お守りの種類
9個のお守り全て持つと満願成就とも言われてます。
赤の面 : 道開き・交通安全・旅行安全
青の面 : 心身健全・学業成就・歌謡上達
緑の面 : 病気平癒・家内安全・芸術優秀
白の面 : 厄除け・心願成就・出世開運・長寿
阿吽一対: 良縁・円満・和合に通じる。
天孫降臨によって
水田稲作の導入は、日本社会の大きく変革をもたらし、
水田稲作の普及は、定住型の農耕社会の形成を促進し、
人口増加と社会の複雑化につながりました。
農耕儀礼は、豊作を祈願するために行われていた。
後に神仏習合の影響を受けて、現在のお祭りへと発展していきました。
天孫降臨でお米の国『農耕民族』である日本国の礎がととのったのです。
次回 第7章『ニニギの結婚』に続く