神話から歴史へ、古代日本誕生物語
第2章
どのようにして倭国(日本)が
はじまったのだろうか?
更新2025/2/3
目次▼
はじまったのだろうか?
第2章
どのようにして倭国(日本)がはじまったのだろうか?
神話時代:日本人のアイデンティティの根源
縄文時代:日本人の生活様式の基礎
弥生時代:国家形成の始まり
後古墳時代:ヤマト王権の成立
これらの時代が複雑に絡み合い、現在の日本が形成されたと考えられています。
<中国の古代書に記載されている日本のこと>
紀元前2世紀〜1世紀頃に書かれた『漢書』と『後漢書東夷伝』

『漢書』地理志には、
日本列島の様子が、倭人社会は百余の国に分かれて、朝鮮半島に置かれた楽浪郡(らくようぐん)
(中国の植民地)に定期的に朝貢をしていた。

『後漢書東夷伝』には
西暦57年に倭の小国である奴国が中国に朝貢し、光武帝から「漢委奴国王」の金印を与えられたこと、
これは江戸時代に福岡県志賀島から発見された金印がこれではないかと言われてます。
西暦107年に倭国の王である帥升(すいしょう)が160人の奴隷を中国に献上したこと
弥生時代の吉野ヶ里遺跡の王が帥升ではないか説を佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長が近年発表されてました。
そして2世紀後半の倭国には統一的な支配者が存在せず、戦が頻発して国が乱れていたことが記されてました。
『吉野ヶ里遺跡』より

左側:庶民の衣(復元)
貫頭衣(かんとうい)
右側:上層人の衣(復元)
出典:吉野ヶ里遺跡資料館展示物
貫頭衣は
王の家
吉野ヶ里遺跡複製展示物


斎堂
吉野ヶ里遺跡複製展示物


3世紀中国の歴史書『魏志倭人伝』に書かれている倭国(日本)
中国では三国志の時代で日本は弥生時代後期になります。
『魏志倭人伝』には、3世紀の倭(日本)の女王の都が置かれた邪馬台国を中心に、多くの国々が 存在したことや、朝鮮半島の帯方郡からの邪馬台国までの行程や、人々の生活様式について書かれています。 女王卑弥呼が大乱の後に共立をされたことや、魏の都「洛陽」に使者を派遣し、皇帝より金印や 銅鏡百枚が贈られたことなど詳しく記されています。

出典:伊都国博物館資料

郡とは、3世紀始め(205年ごろ) 古代朝鮮の中西部に置かれた中国の 植民地の帯方郡(たいほうぐん)説が有力とされてます。 (現在のソウル付近)
魏志倭人に記述されている日本の国々

郡より倭に至るに、海岸に循(したがい)ひて水行し、韓国を歴(へ)、あるいは南しあるいは東し、
其の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に至る。七千余里なり。
初めて一海を渡ること、千余里にして対馬国に至る。
又 南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんがい)と日(い)ひ、一支国(いきこく)に至る
[長崎県壱岐島にあった古代の国]
又 南に一海を渡ること千余里にして末盧国(まつらこく)に至る。[佐賀県唐津市付近一帯]
東南に陸行すること五百里にして、伊都国(いとこく)に至る[糸島半島]
東南して、奴国(なこく)に至る百里 [今の福岡平野一帯]
東に行きて不弥国(ふみこく)に至る百里[福岡県糟屋郡新宮町]
南して投馬国(とうまこく)に至る、
水行すること20日[現在の宮崎付近または愛媛の今治付近]
南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行すること10日、陸行すること1月。
(邪馬台国だけは、これだけ進むと海の中になってしまいますね!なぜでしょうか?
邪馬台国は九州説や近畿説など、いろいろな論争が今も繰り広げられてますが、
未だ場所は不明のままです。)
<空白の4世紀にヤマト王権が始まるまでに、なにがあったのか?>

3世紀後半頃、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて出現した前方後円墳(ぜんほうこうえんふん)と呼ぶ大きな墳丘をもつ古墳は、 しだいに西は九州南部、東は東北地方南部にまで広がっていった。
箸墓古墳

3世紀後半に築造された邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳、さらに古い時期の前方後円形墳墓が存在する。 纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳などである。これらは後円部に対して未発達な前方部を有し、 部分的な調査によって3世紀前半代に遡る可能性が指摘されてきた。 共通する古墳が各地に広まったことは、それまでの小国を 統一する王権が誕生したことを意味する。その中心は大和を中心とした近畿地方で、 4世紀初めの倭わ国では、古墳を造った各地の王が、大和地方の王を盟主として政治的な 連合体を形成するようになったと考えられる。これを大和王権(やまとおうけん)と呼んでいる 大和王権の王は、大王と呼ばれるようになる。 古墳がさかんに造られた3世紀後半ごろから6世紀ごろまでを今は古墳時代としてます。
古代豊国文字

4世紀は、まだ日本には共通文字が無く中国の書物に記載されていることだけが歴史的に証明されてされ、 古来から伝承として『上記』『竹内文書』『九鬼文書』などに記されている書物内容は、それぞれの 神代文字で記されて、『古事記』や『日本書紀』と違う内容の為、偽書として扱われてます。 この4世紀には、日本に大変革がありヤマト王権が誕生した経緯が隠されているのです。 日本の正式な記録として残されている『古事記』712年『日本書紀』720年に発行されましたが、 それまでの記録は海外の暦書に頼るしか知るすべがありません。 5世紀中国の『宋書』に倭の五王が登場するまで日本の記録は途絶えてしまいます。 ですが発掘された4世紀頃と思われる遺跡の科学的調査が進み更に、歴史が解明されるのを期待してます。
世紀の大発見 4世紀頃の円古墳『富雄丸山古墳』

4世紀の世界はどのよう だったのか?
西側ではローマ帝国の分裂、ゲルマン人の大移動、キリスト教の迫害、 東アジア中国では五胡十六国と呼ばれる時代で、中国史上まれに見る大分裂時代になった この頃世界で急速な寒冷化が深刻な問題となり生活環境に大変化がおき、世界が混乱時代になっていった。



記紀(『古事記』、『日本書紀』)では、神武天皇が即位した前660年1月1日(旧暦)を 建国日としている。 以来、約2700年にわたり、皇統で王権(王朝)をつないできた日本は、 世界唯一の単一王朝国家だといわれることもある。 ただこれは伝承による部分もあり、 実質の建国は古墳時代(6世紀頃)と考えられている。
<日本の建国神話 初代天皇神武東征物語>
パート1:旅立ち
神武天皇の東征を記した『古事記』や『日本書紀』は、歴史的な事実というよりは、 後世に作られた神話的な物語であるという見方も根強ですが、 日本の国土形成や国家の起源を物語る重要な出来事として位置づけられています。 その理由は、天からの使命、天下統一、祖先の地への帰還など、多岐にわたると考えられています。
[神武東征理由]
・東に南九州よりも食料生産力の豊かな地があったこと
・神武天皇に英雄性があったこと
・天皇家を貴種と定め、貴種(天皇)による支配を正義とし、
租税政治を組織化する構造を持って東へ進出したこと。
これに敵対勢力は対抗できなかった。

ご際神が神武天皇の『宮崎神宮』
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)
神武天皇のご偉業として宮崎神宮に記されている内容
神日本磐余彦天皇は、ご幼名を狭野武と申し上げました。天照大御神から5代目の御孫にあたります。
鸕鶿草葺不合尊(鵜戸神宮ご際神)の第4皇子で、母は玉依姫命と申します。
天皇は、御十五歳の時に皇太子に即され、日向国で政治をとられましたが、当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく、 皇威が全国に輝くというわけではありませんでしした そこで、天皇は父祖のご意志を継ぎ、天下万民が幸せに暮らせるようにとお考えになり 御四十五歳の時に、都を日本の中央(中州なかつしま)に遷すべく美々津の港から船出されご東遷の途につかれました。

ご東遷の作戦を練っている神武天皇と3人の兄たち
出典:宮崎神宮蔵


宮崎の神話にちなんだ郷土菓子。
『お船出つきいれ餅』

急な舟出で時間がなく米粉に煮た小豆と塩を混ぜ、
蒸してついたものです。
伝説によると、お舟出が、風の影響で急遽出発が予定より一日早まり。 人々は大慌てで米と他の材料をまぜてついた餅を持たせた。 これがお船出だんご、『つきいれ餅』として伝わっている。 人々は天皇の衣のほころびを立ったまま縫い、 用意していたお餅の材料を搗きまぜたものを捧げました。 これらの故事は、現在も美々津の地名「立縫」や、 郷土菓子「つきいれ餅(お舟出だんご)」として伝わっています。 この故事に因み美々津の町ではお船出の日、 旧暦8月1日に「起きよ祭り」が行われます
お船出の当日は、早朝の見送りの為!寝入っている各家の戸をたたき 「起きよ!起きよ!」と里人を起こして廻ったと伝えられています。 このことにより『起きよ祭り』とされたそうです。
更新2024/2/3
次回3章:<日本の建国神話 初代神武東征物語>
パート2:試練