第1章
山幸彦・海幸彦神話に隠された
人間関係の深層心理から学べること
更新2024/8/20
目次▼
『海幸彦、山幸彦、神話』
二人の兄弟神、海幸彦と山幸彦の釣り針をめぐる争いから始まるドラマ
古代日本人の世界観や価値観そして社会構造、文化、などを学ぶことができます。
そして日本人の心に深く根ざし、日本文化に重要な役割を果たし、
人間関係や自己成長のヒントが学べる物語です。
海幸彦・山幸彦 誕生逸話
海幸山幸の二人は、天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と、山の神である大山津見神(オオヤマツミ)
の娘である木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)の子として生まれました。木花之佐久夜毘売命は、燃え盛る炎に
包まれた産屋で 3人の皇子を出産したその子供達が巻き起こしたお話しです。
・第1子火が燃え始めたときに生まれたのが火照命(ホデリノミコト)別名:火闌降命(ほのすそりのみこと)[海幸彦]
・第2子火の勢いが強くなっていった時に生まれたのが火須勢理命(ホスセリノミコト)
・第3子火の勢いが衰えてきた時に生まれたのが火遠理命(ホオリノミコト)
別名:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である。山の神とされてます。[山幸彦]
火照命(ホデリノミコト・海幸彦)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト・山幸彦)であった。 この後に「海幸山幸の神話」が展開し、結果的に兄であるホデリは弟のホオリに従うところとなる。 このホデリは、隼人(はやと)の祖でもあると言われるようになるのです。
1.章
<人生の羅針盤、兄の釣り針>
お互い大切にしていた道具の交換して弟が兄の一つしかない釣り針を海に落としたことから始まる物語です
1塩椎神(シオツチノカミ)の出会い
山幸彦(ホオリノミコト)は、兄・海幸彦(ホデリノミコト)の 大切な釣り針を海に落としてしまい途方に暮れていたところに、 塩椎神(シオツチノカミ)(鹽土老翁神)に出会い、 海神わたつみの宮への道を教え、無間勝間(まなしかつま) という竹で編んだ小船を作り、山幸彦を乗せて潮流に乗り、 海神の宮へと導きます。海の道先案内人として、潮の流れを司る 塩椎神として描かれてます。そして海底のワタツミノミヤへと 探しに出る弟・山幸彦
彦火火出見命(ひこほでみのみこと)
山幸彦
By Yasuchika Otokawa(音川安親)
出典: National Assembly Library of Korea
無間勝間(まなしかつま)小舟とは、
隙間なく編まれた籠製の小船のこと、
海幸彦: 海で漁をする兄。短気な性格で、弟の過ちを許せない。
山幸彦: 山で狩りをする弟。穏やかな性格だが、不器用な面もある。
塩椎神(しおつちのかみ)とは、
山幸彦が泣いた涙から生まれた神。海神の宮殿への道案内人、潮の流れを司る神
海と深く結びついた神様であり、航海や漁業など、海に関わる人々から信仰されてきました。
道案内や知恵を与える神としての側面も持ち合わせており、日本神話において重要な役割を果たす神の一人です。
鹽竈神社、塩竈神社は、海や塩の神様である鹽土老翁神(しおつちのおじのみ)を主祭神として祀る神社で、
浄化作用のあるパワースポットとして知られています。また、東北鎮護・陸奥国一之宮として崇敬を集め、商売繁盛、
安産守護、海上安全、大漁祈願などのご利益があるとされています。
2豊玉姫との出会い
無間勝間(まなしかつま)小舟に乗って、塩椎神(しおつちのかみ)の 案内で大綿津見の(おおわたつみのかみ)の宮殿までたどりつき 宮殿の門をくぐりぬけると桂の木が立っている井戸につきました。 大綿津見の神の娘/豊玉毘売(とよたまひめ)の侍女が家から 出てきてこの井戸の水を山幸彦に渡し飲み干した 器に自分の首に掛けていた玉の飾りを入れて渡しました。 侍女は、その器を持って家の中に入り「豊玉毘売とよたまびめさま たいそう 高貴な方が 井戸の桂の木の上に おります」と、 報告し豊玉毘売と山幸彦が出会いお互い一目惚れししたのが ドラマの始まりです。この出会いが後に神武天皇につながること になるのです。
Evelyn Paul (artist), F. Hadland Davis (book author) - Davis, Frederick Hadland (1912) Myths & Legends of Japan[1], George G. Harrap, パブリック・ドメイン, リンクによる
『火折尊と豊玉姫』美しい容姿と優しい心を持つ
日本最古の井戸 豊玉姫と山幸彦が出会った井戸として 鹿児島県の『玉乃井』 今も神話として語り継がれてます。
3.海神の宮殿
山幸彦は豊玉姫と出会い海神宮殿に招かれ、そして恋に落ち幸せな結婚もして、あっという間に3年程経ちました。
豊玉姫は、海神ワダツミの娘であり、龍宮城に住む美しい女神です。龍の姿に変身することもでき、その涙が真珠になったという 伝説も残っています。そのため、豊玉姫は真珠の象徴として、古くから人々に崇拝されてきました。
ある日のこと。
兄のことが気になり、自分がこの宮殿にやってきた本当の
理由を思い出します。日に日に気がかりになり、始めて妻の
トヨタマヒメが父のワタツミに相談したところ、ワタツミが
山幸彦の事情を聞いてくれました。海神は釣り針の捜索をしていると
赤い鯛が3年程前から喉に何かが刺さって物が食べられないと苦しんでいることを聞き、
早速その赤いタイを呼んで喉に詰まった針を取ってやり、
洗い清めて山幸彦へと渡します。そして、「この釣り針を海幸彦に返すとき、
(この釣り針は憂鬱になる針、うまくいかなくなる針、貧乏になる針、愚かな針)
と心の中で唱えながら渡しなさい。そして、兄が高い土地に田を作ったならば君は
低い土地に田を作り、逆に兄が低い土地に田を作るならば君は高い土地に田を作りなさい」
と言いました。ワタツミは、続けて塩満珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおひたるたま)
という二つの珠を山幸彦に渡し、「君の兄は次第に貧乏になり、心も乱れることだろう。
すると恐らく兄は君を攻めてくるだろうから、そのときはこの潮満珠を使って
溺れさせなさい。苦しんで許しを請うてきたなら塩乾珠を使って助けなさい」と言い、
山幸彦を鮫に乗せて地上へと帰しました。
ここで山幸彦は塩満珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおひたるたま) という二つの珠を手に入れました。
5.地上に戻った山幸彦は海幸彦を従えることになる
地上に戻った山幸彦は、海神ワタツミに言われた通りに海幸彦へ 釣り針を返ました。海幸彦は、田も漁も上手く行かず、 ワタツミが予言したように貧しくなっていったのです。 すっかり心が荒んでしまった海幸彦が山幸彦のもとに乗り込むと、 山幸彦は塩満珠と塩乾珠を使って兄を溺れさせ、そして助けて やりました。このことですっかり弟に服従した兄海幸彦は、 守護人として山幸彦に仕えることを約束します。 こうして山幸彦と海幸彦二神の関係ができ上がったのでした。
「罪に伏」して赦しを乞う海幸彦は、今後は「俳人わざひと」「 狗人いぬひと」となり山幸彦に仕えることを誓い、 また、山幸彦の「神徳」を知る。さらに海幸彦の子孫である「 諸もろもろ の隼人等ら」が、天皇の宮に狗として奉仕すること、 すなわち隼人の狗吠の起源が語られる。奈良時代から平安時代の史料を見ると、隼人は王権儀礼において「犬声」を発することになっており、 呪術的な避邪の効果が期待されていたようである。 この海幸彦が後の隼人(はやと)の祖でもあると言われてます。 隼人とは、ヤマト朝廷と対立された、薩摩周辺に居住していた人と言われてます。 後に大和朝廷に使える臣下となります。
<隼人とはどんな人?>
「熊襲」「隼人」が反抗的に描かれるのに対して、「阿多隼人」はその祖を海幸彦とされ、仁徳紀で天皇や王子の近習であったと 早くから記され、雄略天皇が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事がある。それは、天皇の私的な家来であることを示すとされる。 「大隈隼人」など他の「隼人」は、もともとは南西諸島から南九州を行き来して島嶼交易をしていた縄文人交易民だと言われてます。 そして稲作と青銅・金属加工の技術と独自文化を持っていたと言われてます。
隼人は、鉱物の収取もしていたのでは?
「阿多隼人」は、最終的に阿多の地に棲みついた渡来人であるとされてます。彼らは鉄生産能力と外洋を向かい風でも行ける航海船の造船技術、 操舵の能力を持っていた。そして薩摩半島南端部より南へ約40キロに位置する世界最大規模鬼界カルデラの火山島である薩摩硫黄島には 沢山の海底温泉が沸いていた。その為 硫黄、黄鉄鉱、辰砂、火山ガラス、などを薩摩硫黄島から大量に採取と搬入をしていたのでは? 船があつかえた為、鉄、銅、青銅入手もやっていた。このような記述はないので定かではありませんが、 隼人が活動していた弥生時代の遺跡からは上記のような鉱物を使った装飾品などが出土されていることから可能性があるのではないでしょうか?
隼人舞(はやとまい)
現在も伝承されいる『舞』と『吠声』と『渦巻き紋様』で魔除け、お祓いの古代伝統文化
現在、隼人舞は一部の地域で伝承されており、地域の伝統芸能として大切にされています。 日本の伝統文化の中でも特に古い歴史を持つ舞の一つです。 力強い動きと静かな愁いを帯びたその姿は、見るものを魅了します。 隼人舞を朝廷で歌舞することは,忠誠を誓う服属の儀礼として捉えられていた。 しかし、現代ではその数は減少しており、後世に伝えていくための取り組みが求められています。
1300年の歴史を誇る隼人舞ですが、近年は途絶えていました。約500年ぶりの昭和46年に鹿児島県日枝神社の神舞
「隼人舞」を月読神社に復活奉納。令和を迎えた今も大住隼人舞は受け継がれています。
隼人舞を地元京田辺市大住地区の中学生が代々受け継いでいます。
https://kankou-kyotanabe.jp/event/ohsumi_hayato_dance/
毎年10月14日に月読神社/天津神社で行われてます。
隼人舞は「邪気い」の願いも込められていると考えられている
*海幸彦が海で溺れる場面を舞にした、そして『隼人の吠声』には呪力があったとされ吠声を発するのも特徴の一つです。 邪悪なものを追い払ったとの記録もあり,呪術的な側面が見られたようです。
*舞で使用する『隼人の楯の渦巻き』の紋様に関しては,隼人舞の起源にも関わる海幸山幸の神話に関連して 釣針を表してるとか、竜蛇に起源する渦巻紋とも言って魔除けの意味を持っていたらしいという説があります。
隼人の盾イメージ図
「長さ5尺。幅1尺8寸。厚さ1寸。」
151cmx54cmx0.3cm
延喜式に記述することとほぼ同じ値を示す。
この楯を持って,隼人たちが朝廷の儀式に
臨んだものと考えられてます。
参考資料:鹿児島大学「隼人舞」研究ノート
鹿児島県ホームページ『隼人の盾』
なぶんけん『隼人の盾』
https://www.nabunken.go.jp/
nabunkenblog/2014/11/tanken68.html
昭和38 年,奈良県の平城宮井戸跡から発見された板は,『延喜式』 隼はやとのつかさ人司の条に記されている隼人の楯だと言われます。 盾の表面には赤,白,黒で逆S 字状の渦巻文をふたつ連結した文様が中 央部に大きく描かれており,上下の端には鋸歯文鋸が描かれてました。 鋸歯紋といえば古墳時代の銅鏡、銅鐸、土器などに描かれて います。邪気を払い太陽や火を象徴強いる説があります。 定かではないですが、威嚇や魔除けの紋だったとのではないでしょうか?。
出典:「延喜式(九條家本)」(東京国立博物館蔵、国宝)
海幸山幸物語は、兄弟間の争いや、兄が弟に仕えるという構造を通じて、古代日本の社会構造を反映していると考えられています。 単なる神話にとどまらず、日本人の自然観、神話体系、社会構造、文化芸術、そして価値観にまで、多大な影響を与えてきました。 この物語は、日本人の心に深く根ざし、日本の文化を形作る上で重要な役割を果たしてきたと言えるでしょう。 また隼人という民族は独自の文化を持っていましたが、歴史の中で大和朝廷に統合されていきました。 海幸彦を祖神とすることで、隼人たちは独自のアイデンティティを確立し、誇りを持てたのかもしれません。
更新2024/8/20
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