『古代日本の空白4世紀』なにがあったのでしょうか?
1章
空白時代の背景
・4世紀の世界も激動の時代だった
・空白時代の直前までの生活はどのようだったのか?
・唐子・鍵遺跡は『国作り』の礎だった。
日本古代史空白の150年を照らす光!
東アジア最大の蛇行剣が4世紀頃の富雄丸山遺跡から出土された
古代日本の驚異的な技術力と秘宝に秘められた物語がついに動き出すか?
2023年に富雄丸山古墳で出土された「巨大蛇行剣」と「鼉龍文盾形銅鏡」はまさに空白の150年
4世紀から5世紀にかけて製作されたと考えられています。
さらに今まで出土したことのない大きさと形は謎の空白時代解明の糸口になる可能性大
4世紀と言えば謎のヤマト王権
時代背景と歴史ロマンの世界にご案内いたします。
比類無し鼉龍文盾形銅鏡
(clik)
詳しくは奈良市民だより令和5年3月号
超巨大蛇行剣
今回は『巨大蛇行剣と鼉龍文盾形銅鏡』と『ヤマト王権』の時代背景や関連物を探っていきます!
第1章
空白時代の背景
巨大な前方後円墳は、大和(やまと)朝廷の権力象徴とも言われ、突然のように広がりを見せました。
3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので「空白の四世紀」と現在いわれています。
中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記されている内容
239年):女王卑弥呼が魏に使者を送り、朝貢を行う。魏の明帝は卑弥呼を
「親魏倭王」と冊封し、銅鏡など様々な品物を下賜する。
248年):邪馬台国から使い者が魏に派遣され、狗奴国との紛争を報告する。
魏は塞曹掾史張政を倭国に派遣し、仲裁を行う。
266年):邪馬台国の新女王が朝貢をした。
『晋書 武帝紀』晋の武帝(司馬炎)の時代(265年~274年)に、倭人が
朝貢したことが記されています。この記述には女王の言及はありませんが、
四夷伝では「女王が主語のように読める」とされています。
『日本書紀 神功紀』には泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとあります。 以上の史料から、邪馬台国の新女王台与は266年頃に即位したと考えられます。 これを最後に記録が途絶え 次に『宋書』などに現れる「倭の五王」413年までが何も情報がない為 空白の期間とされてきました。
4世紀の世界も激動の時代だった
西暦266年から413年は、3世紀から4世紀にかけての期間です。
この期間は、ローマ帝国の衰退とキリスト教の台頭、
東アジアにおける三国時代の終焉と南北朝時代の始まりなど、
世界史的に重要な出来事が起こった時期でもあります。
この約150年(266〜413年)の間に日本列島の人々の暮らしが大きく変化しています。 弥生時代の邪馬台国(やまたいこく)は魏(ぎ)の皇帝に戦の救援を求めていることから、 戦乱で苦境に立たされていた。中国はまだ邑国(ゆうこく)同士が激しく争っていた小国時代です。 中国は内乱や、朝鮮半島の情勢変化などが原因で、倭国と中国との交流が減少し、 そして地球の寒冷化で環境の変化や匈奴(きょうど)の侵入に悩まされた混乱は五胡十六国時代に 突入して南北朝時代まで続きます。だから中国は史書に倭に関する記録を残す余裕がなかったのでは? 4世紀は邪馬台国連合の衰退と、大和王権の興隆という政治体制の大きな変革期であった激動の時代、 そしてまだヤマト(日本)にはまだ独自文字文化が無かった為書き残すことができなかった。 残念ですが一時的に記録が途切れてしました。空白の時代と現在まで言われ続けたのです。
🔖ミニ知識
匈奴(きょうど)とは
モンゴル高原にあって古代漢民族の農耕社会を
脅かした遊牧騎馬民族。
空白の150年と言われている時期で唯一記録がのこっていること
266年: 卑弥呼が魏に使いを送り、「親魏倭王」の号を受け取る
300年頃: 前方後円墳が出現
372年: 百済王が倭王に七支刀を献上
391年: 倭国が海を渡り百済・新羅を攻める
413年: 倭国王が東晋に使いを送る
空白時代の直前までの生活はどのようだったのか?
弥生時代の息吹が蘇る
『唐子・鍵遺跡』は約700年間も栄えた
おおよそ2200年前の巨大環濠集落を体感!
弥生時代の人々は自然の恵に感謝する共に自然災害にも恐れていた為
様々な場面で神様にお祈りを捧げていました。
アニミズム信仰が時代とともにアップデートされてお祭りになっていきました。
現在の『お祭り文化』の起源ともいえます。
『唐子・鍵遺跡』から出土した絵画土器には、2人の人物が描かれている物がありました。
そして呪術に使用されたと思われる道具(動物の骨)も出土されてます。
女性
生命力を再生ポーズで両手をあげる超装
動物
呪術に使用したと思われる獅子の骨
男性
豊作を願う礼儀のポーズで盾と丈を持つ
復元楼閣
絵画土器に棟持柱のある高床式や 2層以上の屋根をもつ建物図もあり 2階建物の存在があったことは 明らかです。
『唐子・鍵遺跡』は、発掘されてから100年の歳月が過ぎ調査は今も進行中の遺跡です。 展示品の石ナイフには細かなギザギザ鋭い歯下(サメ歯のように) 刻まれおりました。鞘も当時のまま残ってます止め紐は弥生時代の桜皮で しっかり止められてました。鶏の土器があるように鶏が飼育されていた事実など 季節ごとの旬の食材もありグルメだったことが展示品からわかります。 弥生時代といえば稲作が発達し多数人口をまかった。 ここの土地が平坦な盆地で湿地体で大変稲作するのに 適していた為、巨大環濠集落となったとミュージアム員の方から説明ありました。
弥生時代初〜末期ぐらいまでの約600強年間栄え 後気候変動や政権動乱などあり研究者のでは纏向遺跡の方に 集落が移動したのでは?とも言われています。学術的には まだ未確定です。 弥生時代末期には世界的に寒冷化が進み海水面が引いた ことが研究データーがありました。 (参考研究データー:邪馬台国の気候) この気候変動の影響もありそうですね? 弥生時代末期〜古墳時代入る時に大きな変化があったことが 遺跡からもわかり、かなり高度技術があり、グルメな生活をしていた 人々そして多数の人口を支える能力もある巨大環濠集落だった。 弥生時代末期に何があって消えた?どこに移動した? この後から『空白時代の150年』4世紀と呼ばれる時代になります。 ヤマト王権時代に入っていきます。
2200年前に建っていた『唐子鍵遺跡』 大型建物跡 復元
ここに2200年前の大型建造物跡長辺13.2mx短辺6m が発掘されました。柱には太さ83cm(樹齢110年)の ケヤキが使われ弥生時代最大級のものでした。高床建物と 推測され、大型倉庫の可能性あります。建物の柱を高さ2m で復元されているものです。
2000年前の宝石箱
30〜300万年前の層から出てきた
自然鉱物を利用して、弥生時代最大
最上級のヒスイ勾玉がこの中に
納まってました
そしてこの宝石箱は
この大型建物を区画する溝に
埋納されてました。
唐子・鍵遺跡総合サイトhttps://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/index.html 上記の出土品および資料写真は唐子・鍵考古学ミュージアム館内で撮らせていただいたもの使用してます。