巨大古墳が語る激動の時代!革新の4世紀の謎に迫る
3章
古代のロマンを映し出す、
鏡の宇宙『鼉龍紋盾形銅鏡』
・鼉龍紋盾形銅鏡の特徴
・鼉龍紋盾形銅鏡の模様の意味、用途
・鼉龍紋盾形銅鏡が作られた時代背景
日本古代史空白の150年を照らす光!
東アジア最大の蛇行剣が4世紀頃の富雄丸山遺跡から出土された
古代日本の驚異的な技術力と秘宝に秘められた物語がついに動き出すか?
2023年に富雄丸山古墳で出土された「巨大蛇行剣」と「鼉龍文盾形銅鏡」はまさに空白の150年
4世紀から5世紀にかけて製作されたと考えられています。
さらに今まで出土したことのない大きさと形は謎の空白時代解明の糸口になる可能性大
4世紀と言えば謎のヤマト王権
時代背景と歴史ロマンの世界にご案内いたします。
比類無し鼉龍文盾形銅鏡
(clik)
詳しくは奈良市民だより令和5年3月号
超巨大蛇行剣
2章は『巨大蛇行剣』に関するの時代背景や関連事を探っていきます!
第3章
古代のロマンを映し出す、
鏡の宇宙『鼉龍紋盾形銅鏡』
鼉龍紋盾形銅鏡の特徴
日本で見つかっている古墳時代の鏡は、すべて円形なんです。しかし、盾の形をした鏡が初めて出てきました。 さらに、一般的な鏡は文様がひとつですが、盾形銅鏡は上下にふたつ並んでいます。 出土した蛇行剣の下、棺のふたを覆う粘土に斜めに立かけた状態で発見されました。 長さ64センチ、最大幅31センチと、国内最大級の盾形銅鏡です。鏡面には、中国の神話に登場する鼉龍と 呼ばれる想像上の動物が描かれています。鼉龍は、ワニのような体と龍のような頭を持つ動物で、水の神として 信仰されていました。
最大幅:31cm、長さ:64cm、最大の厚さ:0.5cm、重さ5.7kg。
<『鼉龍紋』倭鏡に認められる。>
龍文は、神像と獣像
が融合した日本独特の
表現文様である。
<鈕(ちゅう)突起状のつまみ。>
出土時に見つかった繊維の跡から、ひもではなく、
織物のようなものが通されていた可能性がある。
<鋸歯文(きょしもん)>
のこぎりの歯のように、連続する三角形の文様。
主に盾の外周、鈕の周り等に配置され、
太陽のようなあしらいも見られる。
銅鏡の透過エックス線写真の分析によると
・上半身だけになった小獣(青囲い)
・とても首の長い鳥のような図像(赤囲い)
・鋸歯文、列れってんもん点文
渦状の文様等を複雑に組み合わせ、
にぎやかな表現を神獣や幾何学文様で
描かれています。古墳時代の日本独特文様の
倭鏡で意味があるようです。
樫原考古学研究所資料参考
鼉龍紋盾形銅鏡の模様の意味と用途
<龍>
鼉龍紋盾形銅鏡の名前にもあるように、龍は最も有力なたとえです。龍は、中国大陸から伝来した架空の動物であり、
権力や威厳の象徴として古くから崇められてきました。鼉龍紋盾形銅鏡の上半身の小獣は、龍の頭部や胴体の一部が表現されていると考えられます。
<虎>
虎は、力強さや勇猛さを象徴する動物です。鼉龍紋盾形銅鏡の上半身の小獣は、虎の頭部や胴体の一部が表現されていると考えられます。
<鳳凰>
鳳凰は、不死や再生を象徴する動物です。鼉龍紋盾形銅鏡の上半身の小獣は、鳳凰の頭部や胴体の一部が表現されていると考えられます。
<想像上の動物神獣>
上記以外にも、鼉龍紋盾形銅鏡の上半身の小獣は、想像上の動物にたとえられている可能性があります。
これらの動物は、いずれも古代において重要な意味を持つものであり、被葬者が死後も権力と威厳を持ち、
永遠の命を手に入れることを願って描かれたと考えられています。
<鼉龍(だりゅう)紋 >とは、
中国の想像上の動物を意味するが、倭鏡に認められるだ龍文は、神像と獣像が融合した日本独特の表現文様です。
この盾型銅鏡は、4つの「乳」と呼ばれる突起を、それぞれ龍の胴体が取り囲み
頭部分はその上にある神像の胴体と共有された形になってます。
では仮にどのようなインスピレーションから生まれたのか中国、日本の考えられる事をご案内いたします。
中国説
中国の『本草綱目』(ほんぞうこうもく)中国明代の医師・薬学者である李時珍(1518年~1593年)によって編纂された、 薬物に関する百科全書的な本草書によれば「鼉」は鼉龍の姿を象った文字で、『博物志』がいう土龍と鼉龍は同じものである。 体長は一、二丈ほど、江湖(長江および洞庭湖)に多く生息するもので、形は守宮(ヤモリ)や鯪鯉(センザンコウ)に似て、 堅い鱗甲に覆われた丈夫な体をもち、いたって力の強い生き物ですが、普段は睡眠を好んで目を閉じているとされます。
出典:妖怪図鑑 『だ龍』
https://tyz-yokai.blog.jp/archives/1083007808.html
鼉龍紋のモデルは鰐だったかも?
出典:大阪大学総合学術博物館
https://www.museum.osaka-u.ac.jp/feature/machikanewani/
<太古日本にワニがいた事実>
昭和39年(1964)5月3日。大阪大学豊中キャンパス(待兼山町)の理学部校舎建設現場で、
2人の青年が骨の化石を発見しました。『ゾウか?と思った』2人は大阪市立自然史博物館に鑑定を
依頼したところ、直ちに大阪大学と京都大学の教員からなる発掘チームが発足。
調査の結果、約45万年前のワニの化石であることが判明しました。ほんの50年前まで、
つまり「マチカネワニ化石」が発見されるまでは、日本にワニはいないとされていました。
この化石は約45万年前の日本に、野生のワニが生息していたという事実を証明する歴史的な
大発見だったのです。
参考:大阪府豊中市ホームページhttps://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/shoukai/
gaiyou/wani.html
日本にマチカネワニが生息していた時期は、人類が日本に到達する約4万年前よりも前といわれています。マチカネワニの化石は、大阪以外にも日本各地で見つかっていますが、 その記録は30〜40万年前で途絶えています。ところが、中国広東省ではもっと生き延びていたとする説もあります。中国のハンユスクス(わに)の化石標本は、中国の青銅器時代、 紀元前16~3世紀頃の地層から見つかったものです。つまり、マチカネワニの近縁であるハンユスクス(わに)が、近年まで人類と共存していたということです。 この頃日本は紀元前16世紀から3世紀は縄文時代(1万2000年前〜2300年前)にあたります。この時代は、地球が暖かくなり始め、生活様式が大きく変わりました。 また、米づくりが始まった紀元前9世紀ごろまでの縄文時代から弥生時代になります。温暖だった時期は,日本でもワニが生息していた可能性あります。そんなことから 日本神話に出てくる鵜葺草葺不合命を産んだん豊玉毘売(とよたまびめ)は鮫と言う人もいますが、ワニだったのではないかと?そしてその子孫が「神武天皇」になるのです。 寒さが苦手な鰐が古代日本にも実在したことは大変あたたかった時期もあったとも言えます。 日本の寒冷化によって熱帯を好む鰐も自然と消えていき稀に生き残った鰐は珍しく神の存在として崇めらていたのでは?
<鋸歯文(きょしもん)>とは、
鋸歯文とは、三角形を連鎖して表現した幾何学文様の1つです。
のこぎりの歯のように見えることからその名がつきました。
中国の漢代の青銅器にも見られることから、中国から渡来した文様と考えられています。
一方で、縄文土器の段階で既に存在していたとする指摘も言われてます。
三角縁神獣鏡
柏原考古学博物館展示物
弥生時代中期終わりBC1世紀頃の高杯の脚部
出典:唐子鍵ミュージアム
鋸歯文の意味
・魔除けや厄除けの力があると信じられていた。
・水や稲を表す文様とされ、豊作を願う意味があった。
・山や太陽を表す文様とされ、権威や力強さを象徴していた。
(鋸歯紋や渦巻き文は世界共通で邪気を払う意味を持った紋様だそうです。)
龍は元来は水の中に棲む水怪とされていますが、天に昇り天高く飛翔する霊獣です。
古来、竜巻は龍が天と地を結ぶ時に発生すると謂れていました。
日本では、龍は雲をよび雨をもたらす雨乞いの霊獣・龍神とされています。
古来、人間は、太陽の恵みに対し感謝の祈りを捧げる一方で、
自然の猛威に対し、瑞雲、稲妻と共に現れ、雨を降らす神、水の神として、龍神を祀る習慣ができていったようです。
だ龍紋と鋸歯紋を合わせることで魔除け、厄除けの効果を高め 権威と力強さを表現しのではないでしょうか?
鼉龍紋盾形銅鏡が作られた時代背景
弥生時代中期後半の寒冷化は、弥生社会に大きな影響を与えた
温暖だった縄文時代から弥生時代初期には徐々に
寒冷化時代へ突入したことが研究資料でわかってきました。
そして、さまざな変化の4世紀は世界でも激変動の時代でした。
<気候変度が始まった時期になにがあったのか>
:特徴:
気温が低下し、降水量が増加
海面が低下し、海岸線が後退
洪水や干ばつなどの自然災害が多発
:影響:
稲作に大きな打撃
集落の移動や放棄
社会不安の増大
参考資料:公益社団法人 日本気象学会 「邪馬台国の気候」
寒冷化の気候変動で海だったところが陸になったり、
植物や動物類も生息地域も変わっていきます。
そして、稲作が困難な地域や災害が増え領土争いがおこったり、
大型の動物の数も減り縄文時代の食生活からジョジョにかわっていきました。
弥生時代の寒冷化の要因は、解明されてなく現在も研究中でございます。
自然災害が多発し、アニミズム信仰だった古来人は祈りや呪術的なことを信じる時代、
社会不安の増大、食料の確保の技術進歩変化、病気多発、など争い事も多い、
混乱、激動時代の4世紀に突入することになるのです。
だ龍紋盾型銅鏡が出土した富雄丸山古墳の築造年代は、古墳時代後期の始めにあたる4世紀後半とされています。
この時代は、ヤマト政権が畿内を統一し、朝鮮半島南部への進出を本格化させた頃です。
古墳時代後期は、政治・経済・文化の各方面で大きな変革が起こった時代です。
<政治>
ヤマト政権が畿内を統一し、全国各地に前方後円墳などの巨大古墳が築造される。
<経済>
水田開発が進展し、農業生産力が向上する。また、鉄器の使用が普及し、農耕具や武器・武具などの生産性が向上する。
<文化>
大陸から新しい文化が流入し、古墳に描かれる壁画や副葬品に表現される。また、豪族たちは権力の象徴として、
豪華な装飾品を身につけるようになる。
だ龍紋盾型銅鏡は,ヤマト政権と朝鮮半島との間の交流を象徴する遺物と言えます。 古墳時代には、大陸から新しい文化が流入し、古墳に描かれる壁画や副葬品に表現されるようになり、 豪族たちは、出土品などから金銅装飾付円筒形埴製容器(きんどうそうしょくえんとうけいようき)や ガラス製装身具などの豪華な装飾品を身につけていたようです。 鏡の大きさや精巧な文様から、当時の権力者にとって重要な宝物であったことがうかがえます。
出典:唐子・鍵遺跡より
ヒスイ製勾玉、ガラス丸玉、青銅製復元腕輪
藤ノ木古墳から出土した金銅装飾付円筒形埴製容器(きんどうそうしょくえんとうけい埴製ようき) 古墳時代後期の代表的な副葬品の一つです
金銅製履(復元品)
古墳時代後期6世紀
藤ノ木古墳
金銅製剣鞘(復元品)
古墳時代後期6世紀
藤ノ木古墳
金銅製大帯(復元品)
古墳時代後期6世紀
藤ノ木古墳
富雄丸山古墳時代の4世紀後半は、日本と朝鮮半島にとって、
政治的・経済的・社会的に
大きな変動が起こった時代です。
<ヤマト政権の成立と拡大>
4世紀後半には、ヤマト政権が畿内を統一し、周辺地域への勢力拡大を本格化しました。
古墳の分布状況や副葬品の内容から、ヤマト政権の権力が全国に広がっていった様子が窺えます。
<前方後円墳の出現>
4世紀後半には、前方後円墳と呼ばれる巨大な古墳が各地に築造されるようになりました。
前方後円墳は、ヤマト政権の権力の象徴と考えられており、被葬者の権力や富を誇示するものでした。
<豪族の争い>
大和朝廷は、奈良盆地を中心に勢力を拡大していましたが、周辺の豪族が、大和朝廷の支配に抵抗し、しばしば戦いを起こしてました。
最終的に奈良盆地周の豪族は大和朝廷に仕えれるようになります。
また大和朝廷の支配が及んで無い地域の豪族同志の争いもあった。
<朝鮮半島からの渡来>
朝鮮半島から、多くの渡来人たちが日本列島に渡ってきました。
そして渡来人は、優れた技術や文化をに持ち込まれ、日本の社会に大きな影響を与えました。
4世紀後半: 高句麗(こうくり)から彼らは、製鉄技術や馬術などを日本に伝えました。
5世紀後半: 百済(くだら)から彼らは、仏教や建築技術などを日本に伝えました。
このように大和朝廷は徐々に勢力を拡大し、日本列島を統一していくことになります。
富雄丸山古墳から出土した副葬品からは、朝鮮半島との交流を示すものや、
ヤマト朝廷との関係を示唆するものが見つかっています
だ龍紋盾形銅鏡と蛇行剣も、大和朝廷と密接な関係を持っていた可能性あり、
朝鮮半島から伝わった技術を元に日本独自技術を超越して、創られた
古墳時代の文化を象徴する遺物と言えます。
ではどのような人物が被葬者だったのでしょうか?
更新2024/6/17
次回:4章 巨大古墳の眠りから蘇る真実!富雄丸山古墳被葬者は誰なのか?