巨大古墳が語る激動の時代!革新の4世紀の謎に迫る
4章
巨大古墳の眠りから蘇る真実!
出土された手つかずの巨大木棺
被葬者はだれなのか?
・木棺の3つの謎
・被葬者の性別は男or女?
・被葬者が大王だったら誰になるのか?
・被葬者が豪族だったら?
・被葬者の人物像はどんな人?
日本古代史空白の150年を照らす光!
東アジア最大の蛇行剣が4世紀頃の富雄丸山遺跡から出土された
古代日本の驚異的な技術力と秘宝に秘められた物語がついに動き出すか?
2023年に富雄丸山古墳で出土された手付かずの巨大木棺『被葬者は誰なのか』
出土された木棺はコウヤマキで作成したものでした。
巨大蛇行剣や類を見ない盾型銅鏡が出土し、7次調査で極めて良好な保存状態で木棺が出土されました
参考:ならしみんだより https://www.city.nara.lg.jp/book/list/book131.html
コウヤマキとはどんな木なのか?
出土した木棺の形はコウヤマキという木を縦に割ってくり抜いた割竹木棺でした。 コウヤマキは東北地方から九州の山地に自生している日本固有の常緑針葉樹。 高野山真言宗の総本山である和歌山県の高野山に多く生育していたことからその名がつけられたと言われています。 昔、弘法大師空海が御仏前に花の代わりに高野槇の枝葉を供えたという言い伝えもあり、 高野山では現在でもその慣わしが残っています。 そして現代では、香りや材木として使用される木部と同様、抗菌や消臭の効果が期待できます。 針葉樹ならではの青々しく爽やかな印象から、森林浴をしているような心地よさや、 心身を落ち着かせる鎮静の効果もあると言われています。 コウヤマキは、リフレッシュとリラックスの両方の効果が期待でき、アロマ空間デザインでも重宝される万能な香りです。
第4章
<木棺の3つの謎>
・木棺の一部が赤い
・3枚に重なる鏡
・散らばる9個の櫛
イメージ
木棺の一部が赤いのは古来から風習『施朱』
頭部付近に広がる朱色は古墳時代に行われた風習『施朱』せしゅによるものだと思われます。 施朱とは、埋葬儀礼として水銀朱(辰砂)やベンガラが使われていた。赤い色は呪術的に神聖視され 「魔よけ」や「死者の復活」を願う意味があった。縄文時代から施朱は風習として行っていた痕跡もあり古墳時代に 受け継がれていったと思われます。王や豪族など死者の遺体への施朱は頭部には辰砂を、身体部分にはベンガラを 施す倍が多かったという。古墳時代には重要人物がなくなるとすぐに埋葬しないで、喪屋を作り一定期間遺体を安置し、 縁者が集って死者の徳をたたえ、別れを惜しんだ。これをモガリ(殯)という。 水銀朱には科学的に、殺菌作用や防腐剤としての効果があることは現代では皆が知っているこですが 古代人は根拠を知って埋葬儀礼に使用していたのでしょうか? 『三国志』魏書東夷伝倭人条で「その山に丹あり」といわれ、日本でも産出した記述もあり、大変貴重な物だった 古来から神社の鳥居が朱色なのは丹で色付けされたものです。
3枚に重なる鏡
副室②(足元)に3枚重ねて置かれてた青銅鏡はすべて鏡面が発掘者映るぐらい綺麗に磨かれたそうです。 鏡3枚の中の1枚が三角縁神獣鏡の可能性があると注目されてます。 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から授かった鏡として有名な形式の鏡です。鏡面には、三角形の縁飾りの中に、 神仙や怪獣などが描かれています。被葬者は卑弥呼と関係のある人なのか? 被葬者の足元に鏡を置く風習は、日本では一般的ではありませんが、古代中国では、鏡を副葬品として埋納する習慣が ありました。鏡は太陽の光を反射する物と考えられており、太陽の光は邪悪な霊を払う力があると信じられていた。 鏡は魂を映すものと考えられ、死後の世界でも被葬者の魂を守ると信じられていたようです。 甘粛省広武市馬踏古墳群:漢代、陝西省西安市永康陵: 唐代、湖北省江陵市楚王墓: 戦国時代の楚王などの遺跡には 被葬者の足元に鏡が置かれてました。3世紀から6世紀頃の遺跡です
散らばる9個の櫛
遺骸の足付近から9個の竪櫛が出土されました。 古事記の神話ではイザナギが黄泉の国から逃げる際にもののけに投げつけて逃げたと物が 『櫛』だったことから魔除けとして納められたと思われます。ではなぜ9個の櫛なのか? 髪を梳くことは、死者の魂を清めると考えられていたため、櫛を副葬することで、 死後の世界への旅立ちを助ける意味があったと考えられます。特に、9という数字は、 古代中国において陽数と考えられ、奇数は陽、偶数は陰を表すことから、陽の力を借りて魂を浄化し、 再生を願う意味があった可能性があったのではないかと思われます。 古事記の神話でもににぎの命が天孫降臨時に9人の神様を従えて葦原の中津国に降臨され新しく国を納める お話しがあります。 そして今も霧島神宮には9面お守りの風習として満願成就とされる9個のお守りがあります。 9という不思議な数字は、古来から再生、厄除け、邪霊よけができると言う思いがあったのではないでしょうか?
2024年3月14日には、墳頂部の木棺から銅鏡と櫛が出土し、古墳の規模や副葬品から、被葬者は 4世紀後半(古墳時代前期)頃にヤマト王権と密接な関係にあった有力者であると考えられています。 そして被葬者が女性である可能性が示唆されています。 卑弥呼の時代よりも約100年ほど後の時代にあたります。
<木棺の被葬者の性別は男or女どちらなのか?>
[なぜ女性の可能性なのか?]
1. 副葬品から判断
銅鏡: 副葬品として銅鏡が出土することは珍しくありませんが、富雄丸山古墳から出土した銅鏡は、いずれも華麗な装飾が 施されたものであり、特に三角縁神獣鏡は、邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から授かったとされる鏡と同型のものとされています。 当時、銅鏡は権力の象徴とされていたため、被葬者が女性であっても、高貴な身分であったことが推測されます。 竪櫛: 竪櫛は、髪に挿す装飾具で、女性が身につけることが多いものです。富雄丸山古墳から出土した竪櫛は、良好な保存状態で、 金箔や朱で装飾されていました。 男性用の場合は実用的な刀剣や武具などの武器類が副葬品として出土する可能性が高いと考えられます。しかし、富雄丸山古墳から 出土した副葬品には、実用的な武器類が見つかってなく、男性向けの副葬品の 馬具や埴輪などもまだ見つかっていません。 そして最大の謎『だ龍紋盾型銅鏡』と『巨大な蛇行剣』はどのような意味があるのか?
2. 木棺の位置と形状
造り出し: 富雄丸山古墳は、墳頂部に主郭部と、そこから南側へ張り出した「造り出し」と呼ばれる部分があります。 被葬者の木棺は、この造り出し部分に埋納されていました。造り出しは、一般的には祭祀を行う場所と考えられており、 被葬者が祭祀に関わっていた女性である可能性が示唆されます。 木棺の形状: 木棺は、長さ約5メートル、幅約1.2メートル、高さ約1.5メートルの巨大なものでした。また、内部には 朱が塗られており、豪華な装飾が施されていたことが分かっています。このような形状の木棺は、女性用と考えられています。
3. これまでの古墳の被葬者
古墳の被葬者: これまでの古墳の調査結果から、副葬品に銅鏡や竪櫛が出土した場合、被葬者が女性である可能性が高い ことが分かっています。
[被葬者が男性の可能性も完全には否定できない理由]
1. 被葬者の地位
古墳の規模: 富雄丸山古墳は、直径約110メートル、高さ約20メートルの巨大な円墳です。このような規模の古墳に 埋葬される人物は、一般的には男性の有力者と考えられていますが、政治・軍事に関わる副葬品から 被葬者が男性であれば、 政治や軍事に関わる副葬品が出土する可能性があります。しかし、富雄丸山古墳からは、そのような副葬品は見つかって いません。
2. 周囲の古墳
男性被葬者の古墳: 富雄丸山古墳周辺には、4世紀後半頃に築造されたと考えられる、男性被葬者の可能性が 高い古墳が存在します。これらの点を踏まえると、富雄丸山古墳の被葬者が男性である可能性も完全には否定できません。
富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は、全長約2.3メートル、重さ約4.5キログラムと、現存する鉄剣の中では最大級のものであり、 その精巧な造りから、当時の技術力と権力の高さとを示しています。確かに、蛇行剣は一般的には男性の武器として使われていたと 考えられています。しかし、富雄丸山古墳出土の蛇行剣は、柄の部分が刀と剣の特徴を併せ持った特殊な形状をしていることが 分かっており、戦闘意外に、呪術的に女性が使用していた可能性もあり、女性が使用していた可能性も否定できません。 現時点では男女どちらも可能性があるということです。
<もしも大王だったら誰なのか?>
「倭の五王」の宋朝への遣使とその結果与えられた称号
中国の「宋書」」「倭国伝書」で主なものは次のものが記された内容に
「倭の五王」の武が、雄略天皇として仮説にしたら、4世紀後半の大王は誰?
出典:埼玉県立さきたま史跡の博物館
稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)
倭国の五王は誰?
5世紀の倭の五王(わのごおう)の5人の大王
中国の史書の「宋書‐倭国伝」などにみえる五人の倭(古代日本)の国王。
五世紀中、南朝に対して使いを送り、方物を貢献したという
讃(さん)・珍(ちん)(弥(み))・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)のこと。
《宋書(そうじょ)》など六朝(りくちょう)の史書に,たびたび中国に遣使して
日本が朝鮮諸国に支配者たる地位を認めてもらおうとしたことや,5人相互の続柄などがみえます。
そしてその中の一人・武は、埼玉・稲荷山古墳出土の大刀銘に
記された銘文により雄略天皇の可能性が現在は高まってます。
「辛亥(四七一)年」当時に「獲加多支鹵大王」と記されていたことがわかり、
熊本県の船山古墳の太刀銘も同様に解読されて、一部には異説もあるますが、
五世紀後半雄略時代の大和政権の勢力は、
関東から九州にまで及んでいたと推測されます。
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ
URI:https://www.digital.archives.go.jp/file/1070572